にゃんこさんへ 立ち退きのお願い2 (耕司
あれから二日、、、。
幻想が見える。
昨日は3か所。
今日は1か所。
トイレを済ませた痕跡がプランターの中に残っている。
幻聴が聞こえる。
昨日は初日。
「おらおら、酢ぐらいでは俺たちになあんの効果もないんだぜぇ!」
今日は二日目。
「雨かあ。行くのはめんどくさいけど、庭の持ち主の希望を打ち砕きに糞でもしに行っておくかあ。」
「ついでに、植えたばかりの野菜もビビらしてやるぜ。へっへっへ。」
そして、現実に戻る。
目の前には4か所のトイレの痕跡と、ひっかき跡だらけのプランターの土の間で、かろうじて難を逃れた苗が植わっており、、、。その前には私が呆然と立ち尽くしている。
、、、。
、、、。
酢が効果があると聞いたのに(怒)。
だが待てよ??
「酢=竹酢」ではない。
「酢」=「食べられるもの」=「よく使われるのはお寿司」=「すしのネタと言えば魚」=「猫が好き~~~」
なんということだ。
これは、やばい。
ねこちゃんにとっては、酢は芳香剤程度のことだったのかも。
ひょっとして、おいしいお寿司のことを思い浮かべながら用が足せる最高の環境を整えてしまったのか?
うん。まあいいや。
じゃあ、この前のはなかったことにして、今度こそ竹酢を買いにいこっと!!
にゃんこさんへ 立ち退きのお願い (耕司
最近、実家の畑にはあまり行けていなくて、野菜との触れ合いがおろそかになっている。
先日、父が「ほうれん草の苗ができたから、植える?」と言って、持ってきてくれた。いや、言い直そう。先日ではなく先週。本当はもう10日ほど前だ。
気分が沈む、、、。ずっと沈んでいる。
なぜか。
庭にはたくさんのプランターがあり、「いつになったら野菜を植えてくれるのか」と待っている。すぐにでも、植えたいのに、どうしても植える気になれないのだ。
どうしてか。
最近、庭に出ていなかったので、すぐには気づかなかったのだが、なんとプランターが、のらにゃんこさんたちのトイレと化しているのだ。
先週、猫よけにペットボトルに水を入れて設置してみた。翌朝見に行くと、、、。
「こんなもので、俺たちが来れないとでも思ったのかい?」とばかりに、これ見よがしにウンコとしっこがセットでしてある。ペットボトルなどお構いなしだ。(ペットボトルは悲しそうに倒れていた。
これはやばい。私にネコを止めるすべはないのかあ。
そんなこんなをしているうちに今日を迎えた。ほうれん草のポット苗が「狭いよう」と悲鳴を上げている。もう限界だ、ついに立ち上がる時が来た。
ウンコをごみ袋に回収し、「もうネコちゃん来ないでね。ここはトイレじゃないから。」と土をならす。そして、ウンコの入っていなかったプランターにほうれん草の苗を植えた。
先日インターネットを見ていると、猫のトイレとならないためには、竹酢や木酢がいいらしいというのが分かった。人が頻繁に出入りするのもいいらしい。(そういえば、最近庭に行ってないなあ。)
そこで、その秘策の竹酢を、、、。と思ったが、竹酢が家になかったので、料理用の酢をプランターにまいてみた。
ふっふっふ。ねこちゃん。この酢のにおいで勝負だ!(笑)
この勝負に負けるようなら、ほんとに竹酢を買いに行かないといけないかもなあ。
二胡の演奏 in病院 (整一
先週、二胡の先生に
「来週、病院に演奏に行くんだけど、どう?」
と声をかけられ、いつもの如く二つ返事でOKしてしまった。
何を演奏するかも知らないのに、OKするなんて私もずいぶん偉くなったものだとちょっと感心?したり、人に聞いてもらうのにそんなに軽い気持ちで引き受けて大丈夫なのか?と浅はかな自分を戒めたり、、、。
(まあ、毎日練習している曲が多いだろうから、何を演奏することになっても一応は大丈夫だろうとは思ってはいましたが。)
今年4回目の演奏。
私も、少し場所や雰囲気に慣れてきたようだ。
いつもは緊張してあっという間に時間が過ぎて演奏が終わるが、
今回はいつもと違い、周りの様子や演奏中のことが少し見えたような気がする。
私は、この年になるまで、ほとんど自分から音楽を聴いたことはない。
きっと同世代のみんなが「懐メロ」と呼ぶであろう曲は、ほとんど歌えない。
曲が流れ始め、「何だこの曲は?」に始まり「うん?聞いたことあるかも?」となり、サビの部分が終わりかけた頃になってやっと「ああ、聞いたことある歌だ」と思うだけである。
特に自分から聴いていないので、懐かしくもないし青春の思い出が蘇るようなこともない。ただただ、聞いたことがあるレベルの歌というだけだ。(今となっては、好きな歌がなかったということを少し寂しくも感じるが、、、。)
まあ、それはいいとして(笑)。
お年寄りは、懐かしい(だろう)曲を演奏すると、自然と歌を口ずさんでいる。もちろん私のように音楽に興味がなかった人もいるだろうが、多くの方が歌うのである。
(いろんな方がいろんな楽器の演奏をしに訪問しているだろうから、それに合わせて歌い慣れているのもあるだろう。)
皆さんそれぞれに体調や調子の悪いところがあろう中、それぞれに歌うのである。
それは、大きな声ではない。はっきりした声でもない。
今出る可能なの声。
けっして「声を張って」とか、「艶のある声で」とかではなく、声に出したくなって自然にでる声。
ハミングのようでもあり、そうでもない。何とも言えない心地よい声・音の響きが室内を包み込む。
楽器の演奏を眺めながら曲を聴きながら、昔を思い出す方もいるのだろう。何だか自分の人生を思い返すような、幸せなような、または何かをかみしめるような目で見つめている。
僕は、最高に美しい歌声・景色だと思った。「歌声」というだけでは言い表せない、なんというか最高に温かい空間・時間であった。
私とはもちろん世代が違うし、それぞれ経験してきた過去の量も重さも違うお年寄り方。同じ空間で、同じ曲を、お年寄りが気持ちよく声を出せるように、お年寄りに無理のないよう息づかいに可能な限り合わせながら、演奏をした。思いは人それぞれではあるが、一体となれたという実感を持つことができた。
今まで、そんな経験が私にはなかったから、余計に思う。これが、一緒に奏でるということか。音楽っていいものなんだな。
今まで、音楽を聞きもせず、楽器の演奏もしてこなかった私には、とても貴重な体験だった。
また訪問させてもらい、一緒に楽しみたい、この時間を共有したいと思った。もっとたくさんのお年寄りが懐かしめるような歌を練習して覚えようと思った。